光触寺 寺伝
光触寺は弘安元年(1278年)に創建された寺院で、開基は”時宗開祖一遍上人”、開山は“作阿上人”と言われております。
作阿上人はもともと真言宗の僧でしたが、一遍上人が弘安5年3月1日遊行の途次、鎌倉へ入られたとき聖人に帰依して時宗に改めました。
光触寺は以来およそ700年、念仏の道場となって今日に及んでいます。
鎌倉三十三観音霊場第7番札所、鎌倉二十四ヶ所地蔵第5番札所となっており、多くの方が訪れております。
本尊阿弥陀如来三尊(頬焼阿弥陀如来)について
光触寺の本堂に安置されているのが、本尊阿弥陀如来三尊であり、その厨子は関東管領足利持氏が奉納したものです。
来迎仏と申し、阿弥陀仏を中心に、左に観音、右に勢至菩薩を祀ります。阿弥陀仏は一般に「頬焼阿弥陀」として知られており、寄木造りで漆箔が施され玉眼入りです。
阿弥陀仏は一メートル、脇侍観音が60センチ、勢至菩薩が60センチで、阿弥陀仏は僅か左足を前に出して来迎印を結んでおります。
観音は蓮台を捧げ、勢至は合掌をしており、この様な形式の仏像は鎌倉時代の初めから多く造られました。
観音像は快慶、勢至像は堪慶作で、運慶の阿弥陀如来像とともに国重要文化財となっています。
また、本尊阿弥陀如来の由来を書いた絵巻「頬焼阿弥陀縁起」には、次のような伝説が記されています。
「町の局という富裕な女性が、運慶に阿弥陀如来像の製作を依頼し、持仏堂に安置して、日々礼拝していた。ある時、失せ物のことで万蔵法師が町の局に焼きごてをつけられたが、その焼き物は万像にではなく本尊の阿弥陀如来についた。阿弥陀様が身代わりとなって頬に焼印を受けたことに霊験を感じた町の局は、岩蔵寺を建立し、そこに阿弥陀仏を安置した。その後、本堂に縁のある者はすべて往生を遂げた」
この絵巻も国重要文化財となっており、鎌倉国宝館に所蔵されております。
【頬焼阿弥陀縁起絵巻】
【勅額】
後醍醐天皇御しん筆と伝えられ「光触寺」の三字を刻されている
【塩嘗地蔵】
昔、金沢街道に面して堂がありましたが、明治30年に当山に移されました。六浦の塩売りが朝比奈峠を越えて鎌倉へ来るたびに、お地蔵様に塩をお供えしていました。しかし、いつも帰りには塩がなくなっているので「地蔵が嘗めたのだろう」という伝説から「塩嘗地蔵」と言われる名高い地蔵尊となりました。
【聖観世音菩薩立像】
平安時代の像
作者不明
【元大慈寺本尊阿弥陀仏の仏頭】